短編集「大聖堂」もしくは"Carver's dozen"に収められた1篇で、約50ページほどの小説。原題は"A small, good thing"。
繰り返し読んでいるとても好きな小説で、関心はあるけどまだ読んでいないというのなら、出来ればこのブログは閉じて全くの先入観なしで読んでもらいたいくらい。
小説を読んで涙ぐむことはあっても、嗚咽寸前までいったのはこの話くらいだと思う。
といってもお涙頂戴的なストーリーでは全然ない。何と言うか、不幸な人生に灯る小さな灯り、のような読後感にどうしようもなく心が締め付けられてしまうのだ。
"A small, good thing"というタイトルに込められた意味は深い。「ささやかだけれど、役にたつこと」という訳をあてたのは村上春樹だけど、「役にたつこと」では少しニュアンスが足りない気がする。"good thing"には、もう少し「幸せ」というか「救い」というか、うーん。
どうも言葉にしづらいけれど、最後まで読んだら、とても小さなことでありながら、それが人の心にどんなふうに良かったのかって分かると思う。こういう言葉に出来ない感情を呼び起こしてくれるから、この小説が好きなのかもしれない。
お話は、母親がパン屋に息子のお誕生日ケーキを予約しに行くシーンから始まる。でも誕生日当日、子供は車にはねられて意識不明となってしまう。
病院で昏睡状態の子供と、それを見守る夫婦。そして夫婦の家に繰り返しかかってくる陰湿な電話。前半の大まかなあらすじはこんな感じ。
それからの後半の展開と最後の"A small, good thing"を思い出すだけで、ぐっとこみ上げてきてしまう。
昨今の、自ら命を断った新入社員のニュースなどを聞くとこの小説のことを思う。人生の辛い時期に、すごく小さな出来事でちょっとだけ救われるということ。もちろんそれで全てがチャラになるわけではないけれど、理不尽な人生であっても、温かみを感じる一瞬があるということ。
自分としては自己啓発本なんかを読むよりも、こういった良質な小説やあるいは映画なんかの方が、考え方の良きバックグラウンドになると思う。
さてここから先は、本格的にネタバレ注意。読んだ人だけで共感を分かち合いたい(笑)

Carver's dozen―レイモンド・カーヴァー傑作選 (中公文庫)
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このお話は人の感情の複雑さを、理屈ではなく心で感じさせてくれるのが素晴らしいと思う。
この話で言えばパン屋だ。陰湿なパン屋だけど、孤独な人生を過ごしてきた果ての姿にどうしても自分を重ねてしまう。
どんなに嫌なヤツがいたとしても、それはその人の一面でしかない。という能書きは、分かっていても受け入れるのは難しい。
でもこのパン屋は夫婦にパンを差し出すのだ。
"A small, good thing"として、焼き立てのパンほどぴったりのアイテムはないと思う。
コーヒーを飲みながら温かいパンを食べる時の、いや、思い浮かべるだけでも感じるあの幸福感。
そして憎しみの対象から差し出された温かいパンに一時の安息を感じること。こんな複雑な感情は言葉には出来ない。
でも温かいパンが人生にほんの少しのあいだ救いをもたらすことが、すごくリアルに感じられて、いつも読むたび何だか目頭が熱くなってしまうのでした。

- 作者: レイモンドカーヴァー,Raymond Carver,村上春樹
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